2007年12月28日金曜日

けだし同感

けだし同感、ってフレーズを目にした。
これって誤用ですよね。多分、「けだし名言」の類推から来てるんだと思う。
けだし、って結構誤用してる人が多いと思う。
意味を知らない場合、大体、辞書を引かないで推量することで間に合せるとは思うけど、「けだし」、ってのは結構、文脈上で推量が効かない気がする。
そして割と誤用してても微妙な誤用になるのでよっぽどはっきりした誤用じゃないと気付かれない。
「けだし同感」の場合、自ら感じた同感って感触は推量するもんじゃないから違和感が比較的はっきりする。
琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に妻や隠れる

ってのがあるけど、これを解釈するのに、「なぜなら」という解釈や、「まったくもって」という解釈だとほとんどギャグになってしまうじゃないですかと思うんですがどうなんでしょう。
ちなみに、けだし同感ってのをググってみると、一番先頭に自分が変だなあ、と思った人のブログがヒットします。

2007年12月13日木曜日

パラダイム

いつの時代にも社会の基底にあるパラダイムがあると思うのだけれど、先天的に与えられた能力よりも自由意思が切り開いて行くことこそ本質的、というパラダイムは、いつ頃からメジャーになってきたんだろうか。
やっぱり、純粋理性批判っぽいってことで、カントとかその辺なんだろうか。とはいえ、この本読んだことないので良く知らないんだけど。
18世紀後半位からなんだろうか。
本質として考えられるものは、多分その時代によって激しく変化するだろうし、多分、時代に左右されない不変の根本原理と思っているものも時代によって変ってしまうんだろう。
歴史的に考えるとすると、封建社会への反撥というのが今の社会の成り立ちにあって、そういう先天的に決定された状態というものを忌避したりしてるんだろうか。
人類の英知によって人類の行く先をデザインする、というのが本質的なのかどうか。

人間の発想が、果して、人間の行く先をデザインできるもんなんだろうか。
たとえば、地球を余裕で滅ぼすだけの核兵器が作られたけれど、これを使用してしまったとして、人間が絶滅するとは限らないんじゃないかと、ふと思った。
何かで読んだ記憶があるんだけど、人類の危機的状況というのは結構あって、遺伝子の解析の結果では、人口が10万人程度まで減ってしまったことがあるのかもよ、ということだった。
60億 - 核攻撃でどれだけ死ぬか - 生き残ってからどれだけ、放射能汚染で死ぬか = 生き残りの人間 >= 10万人以上
ってのは十分考えられるんじゃないかと思った。なんの根拠もないけど。
地球温暖化の問題もあると思うけど、これも本格化するとして、60億が、10万人まで減るかどうか。

核兵器にしろ、地球温暖化にしろ、人間の英知が産み出した。
行き過ぎて、それを人間の英知が心配しているけれど、別に大丈夫じゃないだろうか。
10万人まで減った場合、今迄築き上げてきた人間の英知の結晶は大分損われるだろう。
でも、だからどうしたという気がしないでもない。
人間の知性は、未来の子供達のことを考えるには、あまりにも馬鹿なんじゃないかと思うんだけど、どうなのだろう。
コンピュータでシミュレーションして…というのは、多分、本当に馬鹿な選択な気がする。根拠はないけど。
先祖が、未来の子供達のことを考えてきてくれたお蔭で、その成果として我々があるのか、それとも、本能が色々調整してくれたお蔭で今があるのか。
もしかしたら、未来のことを考える能力はないのに、できると思い込んじゃってて、何でもできるんだから頑張らなくっちゃっと頑張っているのかもしれない。
まあ、全部妄想ですが。

2007年12月10日月曜日

どんどん世の中はつまんなくなるんじゃないかという妄想

世の中どんどん進歩してるんだと思うけれど、何か最近思うのは、人間が本能的に把握しづらいような、いわば処理系のバグが出やすいようなところをつついて進歩と言ってるだけなんじゃないかという気がするんです。
昔、銀行の預金の管理のプログラムを細工して、切り捨て分を自分の口座に振り込む細工を考えた人がいたけれど、これは本当に感心してしまうような鮮かな手法だと思う。
こういうのは人間が把握できる下限と上限を越えてるので人間は、あまり上手く対処できない。
本当に頭が良いと思うけど、やってことは処理系のバグを突いてるだけの気もする。

コンピュータの使い方には色々あるだろうけど、コンピュータに能力を底上げしてもらうという使い方と、コンピュータの能力を使って、人間が上手く処理できないところを突いて金を生むという使い方があると思う。
最近、人間が上手く処理できないところを突いて金を稼ぐぜ、ってのばっかりな気がする。
計画してか、しないでかは分かんないけど、人間の錯覚や、事物についての扱える想像力の限界をみんなしてつついて金儲けしてるんじゃないかとか思うんです。
たとえ金儲けに関係しなくても、それに似たようなことばっかりやっている。
凄く斬新なアイディアなのか、想像もできなかった凄いバグなのかは知らないけれど。
思うに、どうしてそういう所が弱いのかといえば、多分、そういうことに重点を置いて進化してこなかったから、じゃないだろうか。つまり、どうでも良いようなことだったんじゃないだろうか。
どういう事を人間は得意としてるのかは知らないが、とりあえず、それは金を生むことに関してはちょっと難しいのかもしれない。何故ならみんなそれが得意だから。
でも、多分、人間は人間の得意なことをやってた方が幸せだという気がするのだが、どうなんだろう。
あいかわらず自分でも書いてることが良く分からない。

2007年12月9日日曜日

24年ぶりの再会

9歳の時になんかのお祭りのTVでみた曲がもの凄く気に入って、ずっと探していたが、やっとみつかった。
きっかけは一昨年位に読んだ、「レボリューション・イン・ザ・バレー」で、この中にUS FESTIVALのことが書いてあって、自分が見たのってセットの感じからしてこのお祭りな気がするなあと、思っていた。それで、なんとなくの印象なんだけれど、演奏してたバンドはミッシングパーソンズだったんじゃないかなーとずっと思ってはいた。
でも、ミッシングパーソンズ自体Windows位しか聴いたことがなかったし、こういう大きいイベントに出るようなバンドだったんだろうかーと思っていたが、ふと思って、YouTubeで探してみたら、まさしく自分が見たものを発見できた!

自分が探していたのは、これのなかのWalking In L.A.だった!
この人達、格好がめちゃくちゃだ!というインパクトもあったので、これに違いない!
小学校の頃はずっとこれを探していて、シンディー・ローパーがそれっぽいと思って色々探してみたりもしていたが、今思えば、ミッシングパーソンズなんかみつかるわけないよなー。
US FESTIVALは日本でもTVで放送したらしくたまたまこれを見たらしい。ドラムもテリー・ボジオだ!

他に見たいものといえば、11PMの再現ミニドラマで、オナニーをしているところを母親にみつかるシリーズ、というのがあったのだけれど、それが見たい!
そのなかでも特に、掃除器でオナニーをしてるところを母親にみつかる、ってのが最高で、多分自分の生涯で一番面白かったコント?だった。
母親が部屋のドアを開けて目があった瞬間に「やべっ!」という表情をするんだけど、そのまま、「アッー」という感じで白目を剥くという。
そして、ぶおーーっという掃除器の音が空しく響くという。役者も多分全然無名の人だったと思うけど、最高の演技だった。
しかし、もうこういうの放送できないんだろうなー。あれ、なんでこんな話になってるんだろう。
そうだ、冗談画報もみたいなー。

2007年12月5日水曜日

迷惑だからここで死ぬな

樹海には、「迷惑だからここで死ぬな」みたいな看板があるという。
まあ、そうですよね。
地元の人からすれば迷惑だと思いますわな。
でも、死ぬ人間の側から考えれば、敢えて人に迷惑を掛けて死にたいって人もいないだろうと思う。
大体、そういう人が自殺の名所に赴くとも思えない。
良く考えてみると迷惑を掛けないで自殺できるところってあるんですかね。
きっと公的に自殺場みたいな施設があったとしたら、きっとそれなりの処理費用を払ってでも利用する人は結構いるんじゃないだろうか。
電車が止まることも少なくなると思う。
人に迷惑を掛けて自殺するのはクズとか言う人ばっかりだけど、迷惑掛けないで死ぬのは至難の技というのは考えたことがあるんだろうか。
自殺者を批判する人は、公的に自殺施設が存在することに賛成するだろうか。
多分しないだろうと思う。設置どころか、社会にそんな施設が存在すること自体恥じるのかもしれない。

嫌なことは見たくないなという集団の意識みたいなものが、自殺者と自殺現場に噴出してるようなもんじゃないのか。
自殺者と、自殺現場に遭遇した人、残された人、がその社会的に嫌なものを見ることになるんだろう。
そして、周りのあんまり関係ない人々がひどく迷惑がっているんだろう。
でも、これは社会的な歪みようなもので、それを個人規模で処理させようというのは如何なものかと思うのだ。
そういう場所に局所的に遭遇した人々がどうして苦しむことになるかといえば、周りの人間がそれに関与したくなくて助けることも理解することも拒絶してスルーしてるからじゃないのか。
自殺者の希望を叶えることは、社会が大切にしているものを壊すので、それには一切協力できないし、それは、これからもずっとあってはならないことなので、ずっと何となく現状のままなんだろう。

友人が自殺して、自分はどうして助けられなかったのかとトラウマになっている、という人が結構いるのを知った。
思うにこれも、そういう社会的な歪みを個人で背負わされてるようなものだと思う。
自殺する人を助けられるというのが、そもそも夢物語じゃないのか。
自殺する人は助けることができるという社会規模の幻想のほつれを個人が修繕しようとしているようなもんじゃないのか。
多分自殺未遂とかして、その後生きてるような人は、助けることができる人だったのだろうと思う。
でも、既に死んじゃったよう人は、多分、助けることはできない類の人なんじゃないかと思う。
この世界が必要なくなってしまったのだから、どうにもならない。
別に周りの人間が嫌いになったとか、そういう訳ではないと思う。
すべての価値を喪失しているんだから、それに執着しろってのも無理な話。
それでも、できるだけ迷惑を掛けたくないと考えて、樹海とかに赴き、死んでるわけです。
社会の夢を壊さないように、それなりに努力して死んでるわけです。
周りの人がそれをトラウマに感じる、などという結果にだってはなって欲しくなかった筈だと思う。
多分そこまで考えがまわらなかったんじゃないだろうか。