樹海には、「迷惑だからここで死ぬな」みたいな看板があるという。
まあ、そうですよね。
地元の人からすれば迷惑だと思いますわな。
でも、死ぬ人間の側から考えれば、敢えて人に迷惑を掛けて死にたいって人もいないだろうと思う。
大体、そういう人が自殺の名所に赴くとも思えない。
良く考えてみると迷惑を掛けないで自殺できるところってあるんですかね。
きっと公的に自殺場みたいな施設があったとしたら、きっとそれなりの処理費用を払ってでも利用する人は結構いるんじゃないだろうか。
電車が止まることも少なくなると思う。
人に迷惑を掛けて自殺するのはクズとか言う人ばっかりだけど、迷惑掛けないで死ぬのは至難の技というのは考えたことがあるんだろうか。
自殺者を批判する人は、公的に自殺施設が存在することに賛成するだろうか。
多分しないだろうと思う。設置どころか、社会にそんな施設が存在すること自体恥じるのかもしれない。
嫌なことは見たくないなという集団の意識みたいなものが、自殺者と自殺現場に噴出してるようなもんじゃないのか。
自殺者と、自殺現場に遭遇した人、残された人、がその社会的に嫌なものを見ることになるんだろう。
そして、周りのあんまり関係ない人々がひどく迷惑がっているんだろう。
でも、これは社会的な歪みようなもので、それを個人規模で処理させようというのは如何なものかと思うのだ。
そういう場所に局所的に遭遇した人々がどうして苦しむことになるかといえば、周りの人間がそれに関与したくなくて助けることも理解することも拒絶してスルーしてるからじゃないのか。
自殺者の希望を叶えることは、社会が大切にしているものを壊すので、それには一切協力できないし、それは、これからもずっとあってはならないことなので、ずっと何となく現状のままなんだろう。
友人が自殺して、自分はどうして助けられなかったのかとトラウマになっている、という人が結構いるのを知った。
思うにこれも、そういう社会的な歪みを個人で背負わされてるようなものだと思う。
自殺する人を助けられるというのが、そもそも夢物語じゃないのか。
自殺する人は助けることができるという社会規模の幻想のほつれを個人が修繕しようとしているようなもんじゃないのか。
多分自殺未遂とかして、その後生きてるような人は、助けることができる人だったのだろうと思う。
でも、既に死んじゃったよう人は、多分、助けることはできない類の人なんじゃないかと思う。
この世界が必要なくなってしまったのだから、どうにもならない。
別に周りの人間が嫌いになったとか、そういう訳ではないと思う。
すべての価値を喪失しているんだから、それに執着しろってのも無理な話。
それでも、できるだけ迷惑を掛けたくないと考えて、樹海とかに赴き、死んでるわけです。
社会の夢を壊さないように、それなりに努力して死んでるわけです。
周りの人がそれをトラウマに感じる、などという結果にだってはなって欲しくなかった筈だと思う。
多分そこまで考えがまわらなかったんじゃないだろうか。