2007年12月13日木曜日

パラダイム

いつの時代にも社会の基底にあるパラダイムがあると思うのだけれど、先天的に与えられた能力よりも自由意思が切り開いて行くことこそ本質的、というパラダイムは、いつ頃からメジャーになってきたんだろうか。
やっぱり、純粋理性批判っぽいってことで、カントとかその辺なんだろうか。とはいえ、この本読んだことないので良く知らないんだけど。
18世紀後半位からなんだろうか。
本質として考えられるものは、多分その時代によって激しく変化するだろうし、多分、時代に左右されない不変の根本原理と思っているものも時代によって変ってしまうんだろう。
歴史的に考えるとすると、封建社会への反撥というのが今の社会の成り立ちにあって、そういう先天的に決定された状態というものを忌避したりしてるんだろうか。
人類の英知によって人類の行く先をデザインする、というのが本質的なのかどうか。

人間の発想が、果して、人間の行く先をデザインできるもんなんだろうか。
たとえば、地球を余裕で滅ぼすだけの核兵器が作られたけれど、これを使用してしまったとして、人間が絶滅するとは限らないんじゃないかと、ふと思った。
何かで読んだ記憶があるんだけど、人類の危機的状況というのは結構あって、遺伝子の解析の結果では、人口が10万人程度まで減ってしまったことがあるのかもよ、ということだった。
60億 - 核攻撃でどれだけ死ぬか - 生き残ってからどれだけ、放射能汚染で死ぬか = 生き残りの人間 >= 10万人以上
ってのは十分考えられるんじゃないかと思った。なんの根拠もないけど。
地球温暖化の問題もあると思うけど、これも本格化するとして、60億が、10万人まで減るかどうか。

核兵器にしろ、地球温暖化にしろ、人間の英知が産み出した。
行き過ぎて、それを人間の英知が心配しているけれど、別に大丈夫じゃないだろうか。
10万人まで減った場合、今迄築き上げてきた人間の英知の結晶は大分損われるだろう。
でも、だからどうしたという気がしないでもない。
人間の知性は、未来の子供達のことを考えるには、あまりにも馬鹿なんじゃないかと思うんだけど、どうなのだろう。
コンピュータでシミュレーションして…というのは、多分、本当に馬鹿な選択な気がする。根拠はないけど。
先祖が、未来の子供達のことを考えてきてくれたお蔭で、その成果として我々があるのか、それとも、本能が色々調整してくれたお蔭で今があるのか。
もしかしたら、未来のことを考える能力はないのに、できると思い込んじゃってて、何でもできるんだから頑張らなくっちゃっと頑張っているのかもしれない。
まあ、全部妄想ですが。