2008年1月29日火曜日

人間の戦略のようなもの

脳科学から考える睡眠の記事を読んだ。
睡眠の意味というのは時代によって変ってきていると思うが、この記事では、睡眠の意味として、起きている間に起ったことを圧縮してより速く結論が導き出せるようにしている、というものだった。
そこで思ったのだが、どんどん人類の行動のペースが速くなってきているってのは、人間の戦略の本質というか、動物の生き残る為の戦略の本質だろうなと。
要するに、過去の情報を圧縮するのが本質の一つではないかと思った。
病的にペースが速くなってきていて、それにそれに振り回されるのが、現代世界に生きる人間の宿命みたいにいわれるが、どうなのだろう。
生きる意味を問う行為、それ以前に、何かを知りたいという欲求、学習するということ、これらは全部共通していると思う。
それで、学んだ先になにがあるのかということになるが、それはどうでも良いことで、前より速くなれば良いんじゃないかと思う。
「学んだ先になにがあるのか」という問い掛けは、つまり、「学んだ先になにがあるのか」を先取りして知っていれば、もっと速く結果が出せるんじゃないのか、という問いとも考えられ、どっちにしろ速くしたいんだと思うし、よりよいショートカットを模索しているだけのように思える。
そういう意味では、楽観的に考えて世界的な戦争はもうないのかもしれない。
しかし、経験していないことは起こしうるので、戦争よりひどいことは起こるかもしれない。
でも、経験してしまえば、繰り返すことはないんじゃないだろうか。なくなることがないにしろ、少なくはなる筈だと思う。
つまり、宮崎駿的、人間は度しがたいもの的悲観主義は、ある程度間違ってると思った。
過去の出来事から学ばないということは、人間の本質ではないから。
そういう意味で、宮崎駿の悲観主義は忘却することが前提にある。
そもそも忘却しないと世界が成り立たない。でも、それは間違いだと思う。
繰り返さない、ということにかけても、人類は歩を進めるごとに強化しているので、そんなに単純に過去のことを忘れたりしない。
しかし、忘却に対して警鐘をならして、後退しないラッチの役割と考えれば、そういうのもありなんだと思う。
そして、また、学ぶためなら、どんなに非人道的なことでも人間はすると思う。
ただ、それは、後になって非人道的というレッテルが貼られるだけのことだけれど。
こういう何か、意識することもないような巨大な力のようなものの存在に、最近嫌気がするというか、何とも言えない感情を抱いてしまう。
肯定しか存在しない世界に肯定は存在するのかとか、進化しか存在しない世界に進化があるのか、とか思う。

2008年1月24日木曜日

アスペルガー的

明日で引きこもり生活も300日。早いなあ。
この間殆ど人と会話もせず、本当にひきこもっているだけだった。
一人で過して、そのことが原因で退屈するということもないので、やはり一人が好きなんだろう。

アスペルガーの人のブログを読んだ。
2、3人の友達から、TVで自閉症の特番を見て、私のことを思い出したといわれたことがあるのだけれど、私のどんなところがアスペルガー症候群っぽいんですかね(笑)
まあ、空気読まないってのはそうだと思うんですが…。
でも、一般的な感情というものの理解に難儀している、というのは、自分もそうかもしれない。
自分は勿論感情的になるけれど、それでも、割と感情というものを周りの状況から学習して頭でシミュレーションして修得することが多かったように思う。
生得的なものというより、訓練して学習したものが多いという感じ。
自分が人から変ってるといわれることの大部分はこのことが原因だと自分では思っている。
自家製の考えが多くなれば、一風変ってくるのはしょうがないんじゃないだろうか。

それはさておき、アスペルガー的なことで問題なのは、感情というのは一枚岩ではないということだと思う。
感情を読み取ることが弱いとされている人でも、恐怖を感じ、人との継がりを求め、何かを訴えることを望んだりする。
感情自体が湧いてこないので、それを識別して行動することが困難な人もいる。
恐怖を感じない人もいるだろうし、感情といっても、身体的な信号をキャッチすることから、社会的な意味を読み取ることまで、非常に多岐に渡る。
しかし、どうも一括りにしてしか理解できないことが多いんじゃないだろうかと、アスペルガーの人のつづるブログを読んでいてそう思った。
この人自体、一般的な認識と変わらず、感情というものを一括りの総体として考えているように感じた。
自分が思うことをうまくまとめられないが、そもそも一般的な価値観に合せようという指向性は何に由来しているのか、と思う。自分は、これは先天的に与えられた指向性じゃないかと思うが、このブログの人の場合は、自分のしでかしたことで怒った人に恐怖を感じたりするのが嫌、というのが主な動機っぽい。
つまり、何か感情的なものに突き動かされてはいて、感情が読み取れなくても、他の分野の先天的な価値観/感情に呵まれてはいるということだと思う。

自分は、この2、3年、この先天的な価値観というか、感情というものに、なんか無常観を感じてしまっている。
例えば、自分は、異性が好きなんだけれど、別に、後天的に努力して獲得したわけじゃない、みたいな。
変な価値観を別に構築しない限り、このデフォルト性に落着くってのに儚さを感じる。
性欲も食欲も睡眠欲もあるけれど、全部デフォルトだと思う。
このデフォルトを楽しめる人達が、人生楽しめる人達なんじゃないかなあ、と思ったりする。
生きていてデフォルトの価値観に苦しまされること自体、デフォルトとも思われ、そう思うと、人生って複雑であり単純であり何だかわかんないよなとつくづく思う。
私は、自分の人生に生きる価値を見出せない、しかし、デフォルトの自分が、生きる価値をどっかから拾い集めてきて、肯定的なプレゼンをしまくるので、「え?、そうなのかなあ?」と騙されることが多い、というか騙されるようにできてしまっている。
私は、この連鎖から抜け出したいんだけども、そうすると結論として死んでしまう事と等価な気がして困る。

2008年1月14日月曜日

世の中の役に立つ

ふと、世の中の役に立つ情報としては、成功するということより、何らかの失敗の方が情報量としては多いのではないかと思った。
失敗というのは、評価されないがしかし、実際に役に立って世の中を動かして行くことが多い気がする。
例えば、新しい技術が開発されたとする。大概の場合、その技術がもたらした新しい効果によって死んじゃう人が出るけど、それは非常に役に立つ情報になっているのではないだろうか。
運転中に携帯電話で話をして注意散漫が原因で事故って死んだ人とか。
「こっちは危いよ!」という情報を発信してくれたようなもので、危険であることを世に知らしめたという非常に価値のある功績があると思う。
でも、評価としては、どっちかというと「馬鹿な人」という評価を貰って終わる。

2008年1月13日日曜日

無題

なんか知らないけど急にど鬱だ。
この半年以上、ストレスフリーで生活していて感じることですが、自分の鬱は薬飲めば直るなと。
多分。心因性とかそういうんじゃない気がするわけなのです。
風邪気味で頭痛いー、とかそういう感じで鬱が来るわけなのです。
で、別に根拠もなく鬱は晴れるわけですね。
で、別に根拠もなく、ど鬱になるわけです。
もちろん、気分とか心的なものなので、まったくストレス的なものと無関係というわけではないのでしょうけれど。
なんなんでしょうね。

で、全然関係ない流れなのですが、ひどいこと言う人って世の中にはいますね。
確かに正しいことかもしれないし、内容としてはそんなに間違っていないかもしれないけど、言い方っていうか表現が腐ってる人。
ここでいう、腐ってる、ってのは、一体それを指摘したからといってなんの利益があるんですかね?と思われるような内容の指摘、というか意見。なにか前向きなことなら、まだ良いんだけども。
私は、人にひどいことを言って、自分が痛くないような人間はひどいことを言わない方が良いんじゃないかとおもうんですね。
ちなみにひどいことを言う人でも、言った後に自己嫌悪にはなる人は多いみたいです。
でも、自己嫌悪ってのは、ちょっとずれてる。しかも、ひどいことを言う人は、特有のずれ方をしている。結局相手側とは交差しないという。
で、月並みなところですが、人にひどいことは言わないに越したことはないなと。
別にひどいこと言わなくても態度にでてるかもしれないし、それで十分かもしれないし。
そんな私はひどいことをいっても自分が痛いと感じることはあまりないのですが。しかも自己嫌悪にもなりません。