脳科学から考える睡眠の記事を読んだ。
睡眠の意味というのは時代によって変ってきていると思うが、この記事では、睡眠の意味として、起きている間に起ったことを圧縮してより速く結論が導き出せるようにしている、というものだった。
そこで思ったのだが、どんどん人類の行動のペースが速くなってきているってのは、人間の戦略の本質というか、動物の生き残る為の戦略の本質だろうなと。
要するに、過去の情報を圧縮するのが本質の一つではないかと思った。
病的にペースが速くなってきていて、それにそれに振り回されるのが、現代世界に生きる人間の宿命みたいにいわれるが、どうなのだろう。
生きる意味を問う行為、それ以前に、何かを知りたいという欲求、学習するということ、これらは全部共通していると思う。
それで、学んだ先になにがあるのかということになるが、それはどうでも良いことで、前より速くなれば良いんじゃないかと思う。
「学んだ先になにがあるのか」という問い掛けは、つまり、「学んだ先になにがあるのか」を先取りして知っていれば、もっと速く結果が出せるんじゃないのか、という問いとも考えられ、どっちにしろ速くしたいんだと思うし、よりよいショートカットを模索しているだけのように思える。
そういう意味では、楽観的に考えて世界的な戦争はもうないのかもしれない。
しかし、経験していないことは起こしうるので、戦争よりひどいことは起こるかもしれない。
でも、経験してしまえば、繰り返すことはないんじゃないだろうか。なくなることがないにしろ、少なくはなる筈だと思う。
つまり、宮崎駿的、人間は度しがたいもの的悲観主義は、ある程度間違ってると思った。
過去の出来事から学ばないということは、人間の本質ではないから。
そういう意味で、宮崎駿の悲観主義は忘却することが前提にある。
そもそも忘却しないと世界が成り立たない。でも、それは間違いだと思う。
繰り返さない、ということにかけても、人類は歩を進めるごとに強化しているので、そんなに単純に過去のことを忘れたりしない。
しかし、忘却に対して警鐘をならして、後退しないラッチの役割と考えれば、そういうのもありなんだと思う。
そして、また、学ぶためなら、どんなに非人道的なことでも人間はすると思う。
ただ、それは、後になって非人道的というレッテルが貼られるだけのことだけれど。
こういう何か、意識することもないような巨大な力のようなものの存在に、最近嫌気がするというか、何とも言えない感情を抱いてしまう。
肯定しか存在しない世界に肯定は存在するのかとか、進化しか存在しない世界に進化があるのか、とか思う。