2008年1月24日木曜日

アスペルガー的

明日で引きこもり生活も300日。早いなあ。
この間殆ど人と会話もせず、本当にひきこもっているだけだった。
一人で過して、そのことが原因で退屈するということもないので、やはり一人が好きなんだろう。

アスペルガーの人のブログを読んだ。
2、3人の友達から、TVで自閉症の特番を見て、私のことを思い出したといわれたことがあるのだけれど、私のどんなところがアスペルガー症候群っぽいんですかね(笑)
まあ、空気読まないってのはそうだと思うんですが…。
でも、一般的な感情というものの理解に難儀している、というのは、自分もそうかもしれない。
自分は勿論感情的になるけれど、それでも、割と感情というものを周りの状況から学習して頭でシミュレーションして修得することが多かったように思う。
生得的なものというより、訓練して学習したものが多いという感じ。
自分が人から変ってるといわれることの大部分はこのことが原因だと自分では思っている。
自家製の考えが多くなれば、一風変ってくるのはしょうがないんじゃないだろうか。

それはさておき、アスペルガー的なことで問題なのは、感情というのは一枚岩ではないということだと思う。
感情を読み取ることが弱いとされている人でも、恐怖を感じ、人との継がりを求め、何かを訴えることを望んだりする。
感情自体が湧いてこないので、それを識別して行動することが困難な人もいる。
恐怖を感じない人もいるだろうし、感情といっても、身体的な信号をキャッチすることから、社会的な意味を読み取ることまで、非常に多岐に渡る。
しかし、どうも一括りにしてしか理解できないことが多いんじゃないだろうかと、アスペルガーの人のつづるブログを読んでいてそう思った。
この人自体、一般的な認識と変わらず、感情というものを一括りの総体として考えているように感じた。
自分が思うことをうまくまとめられないが、そもそも一般的な価値観に合せようという指向性は何に由来しているのか、と思う。自分は、これは先天的に与えられた指向性じゃないかと思うが、このブログの人の場合は、自分のしでかしたことで怒った人に恐怖を感じたりするのが嫌、というのが主な動機っぽい。
つまり、何か感情的なものに突き動かされてはいて、感情が読み取れなくても、他の分野の先天的な価値観/感情に呵まれてはいるということだと思う。

自分は、この2、3年、この先天的な価値観というか、感情というものに、なんか無常観を感じてしまっている。
例えば、自分は、異性が好きなんだけれど、別に、後天的に努力して獲得したわけじゃない、みたいな。
変な価値観を別に構築しない限り、このデフォルト性に落着くってのに儚さを感じる。
性欲も食欲も睡眠欲もあるけれど、全部デフォルトだと思う。
このデフォルトを楽しめる人達が、人生楽しめる人達なんじゃないかなあ、と思ったりする。
生きていてデフォルトの価値観に苦しまされること自体、デフォルトとも思われ、そう思うと、人生って複雑であり単純であり何だかわかんないよなとつくづく思う。
私は、自分の人生に生きる価値を見出せない、しかし、デフォルトの自分が、生きる価値をどっかから拾い集めてきて、肯定的なプレゼンをしまくるので、「え?、そうなのかなあ?」と騙されることが多い、というか騙されるようにできてしまっている。
私は、この連鎖から抜け出したいんだけども、そうすると結論として死んでしまう事と等価な気がして困る。